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六古窯とは?~陶器をさくっと知ろう

maruzo_kun

六古窯と言う言葉、あまり馴染みが無いのではないでしょうか。そもそも「ろっこがま」じゃないんですね、「ろっこよう」と言うそうです。それはともかく意味合いは字面からなんとなく想像できそうです、日本の中世から現在まで生産が続く代表的な6つの陶磁器窯の総称です。それらは越前(福井県)、瀬戸(愛知県)、常滑(愛知県)、丹波(兵庫県)、備前(岡山県)、信楽(滋賀県)を指します。個人的には有田や信楽の方が有名な気がしていたので、それらが入っていないのがなんだか意外。これら六古窯は、日本の陶磁器文化の発展に大きく貢献してきた訳ですが、こうやって見てみると港のあった九州や文化の中心地である京都、大阪が入っていない事も不思議に思えます。

ここではどれくらいの歴史があるのかだけを簡単に把握し、その後また別の機会にそれぞれの窯について掘り下げていければと思います。ですので以下に簡単に始まりの部分だけをまとめていきます。下みたいな表があれば、イメージしやすいと思い作りました。

越前焼

平安時代末期、常滑焼の技術が伝わり焼き締めによる陶が作られ始める。初期の越前焼は、常滑の陶工が行っていたのではないかと言われる。高温焼成によってよく焼き締められているので、釉薬を使わなくても水が漏らない事が特徴から日用雑器として生産され、室町時代後期には北は北海道、南は島根にまで運ばれている。

瀬戸焼

瀬戸焼の起源は5世紀後半の古墳時代、現在の名古屋市東山丘陵周辺に猿投窯と呼ばれる須恵焼窯が誕生した辺りから。日本の陶器一般をさす「せともの」がこの”瀬戸”から来ていることからも分かるように、とても歴史が古いです。猿投窯は奈良時代に日本で初めて釉薬を”意図的に”施しており、陶業の一大生産地となる。平安時代中期に猿投窯から周辺各地へ窯が拡散し、この頃をもって瀬戸焼が成立したとされる。その後12世紀の終わり、平安時代後期に古瀬戸の生産が始まる。

常滑焼

常滑焼は平安時代末期、猿投窯の南部に位置していた灰釉陶器窯が南下し、知多半島西部で形成されたとされる(灰釉陶器とは、炎による焼き締めだけではなく、釉薬を施したもの。灰釉陶器窯とはそう言った陶器を作っていた窯)。当時知多半島の丘陵部では多くの穴窯が築かれ、多くの甕や壷が生産されていた。
また海道の助けもあり、鎌倉時代に入るころには東北から九州まで、全国各地へ広まっていたそうです。
※穴窯とは斜面を利用してトンネルを掘り、同時に上部に煙突代わりとなる穴を空けた原始的な窯のこと。古墳時代に初めて登場し、当時は須恵器がこれによって焼かれていた。登り窯の前身と言える。

丹波焼

丹波焼は平安時代末期から鎌倉時代の初めに発祥したと言われているよう。農業に向いた土地ではなかったそうですが、代わりに土壌や気候が陶器の生産に適していました。ちなみに、立杭焼、丹波立杭焼と言う言葉も見つかりますが、同じものを指しているそうです。初期、と言いますか400年ほどは山腹を利用して横穴を掘り、天井を空けて構造の穴窯と言う窯で焼いており、その後から登り窯に変わっていったという様に2つの時代に分けられます。登り窯が朝鮮から伝わったのが1600年頃で、ちょうど同じくらいの時期に”蹴りろくろ”が入ってきました。

備前焼

備前焼は平安時代末に、熊山の麓で生産を始めた事が起源とされていますが、更に古墳時代にまで遡ることが出来るようです。備前市南部から瀬戸内市、岡山市内辺りには須恵器の窯跡があったとされ(邑久古窯跡群)、それが鎌倉時代~桃山時代にかけて変化していきました。初期の備前焼は熊山連峰の山中で生産していたそうですが、発展に伴い里へ下りてきたという事です。

信楽焼

鎌倉時代中期~後期に始まり、常滑の技術が伝わったとされる。当時の文化の中心地である近畿地方であり、大阪や名古屋からも近い。また大昔、今の信楽の位置には琵琶湖の原型となる古代湖があったことなどから、良質な陶土が取れたことも栄えた要因の一つ。

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ねずみの男の子
まるぞうくんは、一緒に暮らしているお兄さんがやっている、陶芸をいつも見ていました。

そうするうちに自分もやりたくなっちゃって、教えてもらって始めたのでした。
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